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里美町の風景 1

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 さあ、と心地良い風がそよぐ。
 新緑に映える木々たちをさざめかせた涼風は、山裾を駆け下りて、麓の人里へと吹き渡っていく。
 その町並みを俯瞰する小高い山の頂、簡素に作られた展望台に、制服を着た一人の少女が立っていた。
 艶やかな長いめの黒髪を風に流し、気持ち良さそうに眉を細めた彼女は、それから、足元に置かれていた鞄から、
 ひとまわり小さなケースをゆっくりと取り出して、丁寧にそれを開いた。
 その中に収められていたのは、少し古びた様相の一眼レフカメラだった。
 彼女は取り出したそれを慣れた手つきで操作して、そうして、すっと静かに掲げる。
レンズは下方の町へと向けられて、
「……ん」
───パシャリ、と小粋の良い音を立ててシャッターが切られた。
 刹那の集中から開放されて、小さく息を漏らした彼女は、一呼吸置いて、再びカメラを構える。
 今度は視界の遥か先に佇む山々に狙いを定め、その荘厳な姿をフィルムに焼き付けていく。
 次々に周囲の景色を撮り収めていく彼女の表情は、真剣さの中にも朗らか笑顔が覗いて、年相応の瑞々しい活力を溢れさせている。
 柔らかな日差しを浴びて、楽しげに撮影を続ける制服姿の少女。
 彼女の名前は風間(かざま)絵美莉(えみり)。眼下の町、里美町(さとみちょう)の商店街に店を構える風間写真店の一人娘にして、店長代理。
趣味は読書と料理。そして何より、写真を撮ることが大好きな一女子高生だ───。


1.

自然豊かな風土が特徴な、盆地の町、里美町。
 周りを取り囲む山々は高低様々で、いま絵美莉がいる里場山(さとばやま)はそれらの中でも低い部類に属するが、
 町に最も近く、また林業のために舗装された道があるというこの二点が、町の風景をメインに撮る彼女にとっては最適で、よくここを訪れる理由になっている。
新年度の始まりの時期には地元の小学生たちが遠足に来て賑わうこともある山頂は、しかし普段は落ち着いた場所で、
またそんな環境も、集中して撮影に臨むには良いロケーションであると言えた。
絶好の撮影日和の中、お気に入りの情景を写し続ける絵美莉。
と、そんな彼女の野外スタジオに、聞きなれない誰かの声が届いた。
「───あーっ、もう重え! 誰だよこんなデカいバイク買ったヤツ!!」
「アンタでしょ、アンタ。それより……ホントにここで合ってんの? なんか全然それっぽい建物見当んないんだけど」
「え? あ、ああモチロン!? 上まで行けば、多分───」
 何やら騒がしい様子で山頂へと近づいてくる二人分の声に、絵美莉は、
「……? 何だろ?」
 撮影の手を止めて首を傾げる。
 そうしている内に、下り道の方から、
「よっしゃあぁっ! ようやく山頂だ───って、あ、アレ?」
満身創痍という感じで汗だくになりながら大型のバイクを押してきた若い男と、
「……やっぱり」
その隣で呆れた表情で溜息を零す女───そんな二人が現れた。
 何があることを期待していたのか、絵美莉の居る展望台以外は何も無いその山頂に、男は疲弊した顔をさらに青くして、
「え、ちょ、マジか……よ……」
「……現実を見なさいよ」
「ウソだろぉおーーー!?」
 大仰に叫び声を上げて、へなへなとその場に崩れ落ちた。まだスタンドを降ろしていなかったバイクが鈍い音を立てて倒れ込み、小さな砂煙を巻く。
 事態は飲み込めないが、何か悲劇的に、しかして、ある種喜劇的にも映るその光景に、絵美莉はどう行動して良いのか戸惑っていると、
「……ああ。気にしないでいつものことだから」
「え? あ、はい」
 冷めた視線を男に向けていた女が、自嘲するかのように頬をヒクつかせながら、絵美莉に笑い掛けた。
それから、
「貴方地元の人よね? ちょっと聞きたいんだけど」
「嫌だー……聞かないでくれー……」
 背後で自失呆然としたまま、何か呟いている男を無視し、
「ここ、朝霞山(あさかやま)って山じゃ……無いわよね?」
 尋ねるというよりも、念を押すというような口調で問うてきた。
 その山の名前に少し聞き覚えのあった絵美莉は、遠くに見える山の一帯を指して、
「ここは里場山です。朝霞山ならあの辺りの山ですよ」
 律儀な答えを返す。
 絵美莉の返事に、
「そうよね……」
 力無く肩を落とした女と、
「マジで……。全然違うとこじゃねーか何処だよここ……」
 指し示された先を目で追って、次いで愕然として言葉を漏らした男。
 そんな、余りに看かねる状況に、
「ええと……何かお困り……ですよね?」
 絵美莉は躊躇いつつも、そう話を切り出した。
 すると、それを聞いた男が突然立ち上がり、涙目で縋るように絵美莉に歩み寄って、
「そうなんだよお困りなんだよという訳でとりあえず君可愛いねメア───ッ!?」
「もうアンタは黙ってろ!」
 すぐさま飛んできたビンタをカウンター気味に食らって地面にもんどり打つ。
 男を張り倒した格好になった女は、薙いだ手を小さく振って、
「ったく、これ以上余計なことしないでよ……。ああ、で、なんだっけ?」
 嘆息と共に吐き捨てるように言った後、絵美莉にそう問い返した。
「……あ、その」
 その豪快な一部始終にあっけに取られていた絵美莉は、女の掛けた声ではたと我に帰り、
「もし何かお困りなら、私でよければ力になりますが……」
 もう一度、彼女たちに向けて助け舟を差し出す。
地面に突っ伏しながらも「じゃあメア……」と言いかけた男を今度は目だけで制した女は、
「そうね……じゃあ携帯持ってたら貸してくれない? 私たちの携帯、二人とも地図調べまくったせいで電池切れちゃっててさ」
「はい。いいですよ」
「ごめんね。アレ、どうにかしなきゃならないからさ」
 まだ倒れたままになっているバイクの方を見遣って言った。
 女に釣られ、そちらに視線を向けた絵美莉は、そこでふと、先ほど男がずっとバイクを押して上がってきていたことを思い出し、
「あのバイク……もしかして何処か壊れちゃったんですか?」
 女に確認を籠めて聞き返した。
「ええ、そうみたいね。詳しいことは分からないけど、エンジンか掛からなくなったってさ。保険屋に来て貰うつもりだけど、この山奥じゃあ時間掛かるかもね」
 絵美莉の問いに、やる気なさげに答える女。一体いつまで待たされるのかと溜息を隠せないで項垂れる姿に、しかし、
「バイク屋さんじゃ駄目ですか? 私、すぐ近くの町のバイク屋さんの番号分かりますけど」
 絵美莉のそんな思い付くままのアイディアに救いを見出した男が、
「マジで!? すげぇ助かる!!」
 その内容にすぐさま反応して起き上がり、改めて絵美莉の元に駆け寄った。
そして、
「君、なんて名前? 是非これを機会にお友達に!」
 その手をがっちりと掴んで嬉しがりながら、名前を聞いてきた。
 突然の握手に困惑する絵美莉の横、男に押し退けられて脇に回されてしまっていた女が、
「何やってんのよッ! 彼女引いちゃってるでしょッ!!」
再度二人の間に割って入り、繋がった手を無理やり引き離した。
「もう! ホントこんなヤツでごめん。ええと……」
「絵美莉です。風間絵美莉」
「絵美莉ちゃんね。私は羽居(はねい)都子(みやこ)よ。よろしくね」
 都子と名乗った女は、それから男の手の甲を抓り上げながら、
「イテテイテェッ! ちょ、都子止めてくれーッ!」
「こっちの馬鹿は杉山(すぎやま)徹(とおる)よ。まあ一応よろしくね」
 そう男の名も紹介した。
 きつく抓られ続け、涙目で喚く、徹と呼ばれた男は、それでも
「イィィテエェェッ!! と、とりあえずよろしくね絵美莉ちゃ───ちょ、マジイテェってよ都子!!」
 何とか絵美莉への挨拶を済ませ、再び苦痛に顔を歪ませ始める。
「は、はぁ。よろしく」
 対する絵美莉はそんな二人の荒々しいやり取りに、若干気後れしつつも、
「あの、羽居さん?」
「あ。都子でいいわよ」
「じゃあ……都子さん。そろそろ電話掛けますけど……?」
 都子を伺って、
「ああそうね。ちょっと徹、電話出る準備しなさいよ」
「なんだコレ理不尽すぎる……」
 ようやく解き放たれてすっかり赤くなった手の甲を労わっていた徹に、バイク屋へと繋がった携帯を手渡したのだった。