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鳥が空を飛ぶ理由

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 ただいま、と小さく呟いた言葉は、誰かの耳を擽ることなく中空に溶けて消える。
 薄暗がりの中、私は無造作に手荷物を置いて、敷きっぱなしの布団の上に身を投げ出す。
 ぽすっという柔らかい音。
 僅かに舞い上がる毛埃。
 枕に顔を埋め、うつ伏せのまま暫く瞼を閉じる。
 しんと静まり返った部屋の中。私の呼吸音だけが淡く響く。
 ───どれ程の間そうしていただろう。
「……ん」
やがて、息苦しさを覚えた私は身動ぎして寝返りを打った。
 仰向けになって、開いた視界の先に映ったのは、代わり映えのしない見慣れた天井。
 そんな味気のない光景を何となく嫌った私は、首を寝かせて視線を移した。
 暗闇の中でおぼろげな輪郭を描く、普段私が愛用している作業机。
 その台の上からうっすらと姿を覗かせている、四角い影。
「……」
 私は、それがそこに在ることに、微かに心を揺らして───そして再び目を瞑った。
 にじり寄るまどろみに、私は抵抗せずに身を預ける。
そうして、ただ静かに意識が刈り取られるのを待った。


「射命丸さん? 今日もこちらの担当なんですか?」
 まだ太陽すら昇っていない早朝、いち早く詰所に待機していた私に、後から訪れた後輩天狗の娘たちは皆、目を見開いて驚きの声をあげる。
「ええ。よろしくね」
 一方私はそんな彼女たちに笑顔を作って挨拶を返した。
「は、はい! よろしくお願いします!」
 慌てて頭を下げる皆の様子に、私は、真面目な娘たちね、と内心で評して、
「それじゃ、行きましょうか?」
 先陣を切って跳躍し、澄み切った大気の待つ虚空へと舞い上がった。
 ぐんぐんと近づいてくる青紫色の夜明け前の空。
 ちらりと視線だけ振り返れば、建物から順番に飛び出てくる後輩たちの姿が見える。
 そこで、ふと。
「……」
 彼女たちには、今の私がどう映っているのだろう、と気になった。

 日常の警邏に同行し、任務に就いたばかりの後輩たちを指導するというこの立場は、本来私が担う役割ではなかった。
 他の娘が受け持つ筈だったこの任務は、しかしその娘の急病という不測のトラブルによって
担当者不在の難に見舞われてしまっていた。
 すぐに複数の代役が検討されたようだが、皆都合が合わず───そうして、最後に私のところへと話が回ってきたのだった。
 ぎりぎりまで話が来なかったのは、ある種当然といえる。
 射命丸文はよほど重大な任務でない限り自身の都合を優先する、ということは大方に周知された事実であったからだ。
 交渉に来た娘の、既に諦観していた顔を今でも覚えている。
『という訳なんだけど……無理だよね───』
『───いいわよ。引き受けても』
『……え?』
私の回答に、一切の驚きを隠さずに、
『本当に本当に引き受けてくれるんだよね? 嘘じゃないよね!?』
『……そんなに信頼ありませんか、私』
『あっ、いや、えっとぉ……と、とにかく宜しく! 詳細はまた連絡するから!』
……何度も何度も念入りに確認をとって、それからようやく安堵の溜息を漏らしたその表情も。
 ともかく。
私は彼女に良い答えを返して、そして今、この空を飛んでいる。

 遥か向こうの山々が、俄かにざわつく。
 紫と緑の境界線に、光が生まれる。
 明けゆく東の空。
 視界を刺す一瞬の閃光に包まれて、私の思考はフラッシュバックする。

 この任務を引き受けた理由。
 幻想郷を最速で駆け回る、清く正しく、そして忙しい筈の新聞記者の手が空いていたワケ。
 あの日の出来事を、私は無意識に思い返していた。