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悪魔と花

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 木々の間から微かに差し込む月光を遮って、大きな黒い塊が一つ、大地に影を落とし込んでいた。人型をとったその影は、
 しかしおよそ人間のそれとは比べ物にならない大きさでその場に佇み、地面に濃い陰影を産み出していた。
 暫く静止していたその影は、やがて、
「……あっ、あ……」
 闇夜のざわつきに呼応するかのように、ゆっくりと動き出す。
 黒く、図太い筋がのそりと鎌首を擡げ、
「ひっ!」
次いで足元の影に向かって振り下ろされる。───その刹那。
「あら。こんばんは」
 唐突に、何者かの声が周囲に響き渡った。
「!?」
「……え?」
 遥か上空から降ってきた涼やかな声に、影は反射的にその方向に翻り、
「今夜は」
「!!」
 次の瞬間には、
「よい月ね」
「!?」
 ドカンッという重音を轟かせて、辺りの木を巻き込みながら後方へと吹き飛ばされていた。
 バキバキという破砕音が次々に静寂を打ち破っていき、無理やり覚醒された動物達が、何事かと浮き足立って跳ね回る。
 そんな、夜更けに似合わぬ喧騒の渦中に、
「ふぅ」
 少女が一人、空から舞い降りて小さな吐息を漏らした。
 ぶんと軽く腕を払ったその少女の背中には、幼い外見に不釣合いなサイズの黒翼が広がり、横に伸びた影を大地に映し出す。
「……あ……え……?」
 しかし、そこに描かれていた影の輪郭は、今なお中空でふわりと浮く少女の容姿とは、完全に一致するものではなかった。
「ねえ」
 背後に悪魔の翼を携えた紅い少女が、足元の影に向けて声を落とす。
「───貴方もそう思わないかしら?」
 力強く、それでいて流暢な口調で問われたその言葉に、
「……」
 影はただ、ほんの僅かに揺れ動いただけだった。


「お帰りなさいませ、お嬢様。散歩は如何でしたか?」
「楽しかったよ。色々ね」
 月が綺麗だったからという理由だけで、何気なく出向いた深夜の散策から帰宅した私を、
 我が紅魔館のメイド長は嫌な顔一つ見せることなく出迎えた。
「お飲み物など如何ですか? 準備はできておりますので」
 流石は咲夜。気が利くじゃない。
「ええ。ありがとう」
 私は畏まった咲夜に頷き、それから肩越しに振り返って、
「貴方、紅茶は飲める?」
 ───背後に立つ人間に問い掛けた。
「……え?」
 声を掛けられるとは思っていなかったのか、その人間───正確には童女───はびくりと身体を跳ねさせて、
 怯えと驚きを混ぜ合わせたような複雑な表情を私に見せる。そうして、答えは返してこずに、泳いだままの視線をただ私に向けてくるだけだった。
「苦手でしたら別の物を用意しますが……」
 一向に返答のない童女に、咲夜が少し困ったように首を傾けながらそう提案する。
 その言葉に、童女はまた小さく肩を震わせたが、やがて、
「……」
 先刻森の中で私にしたように、無言のまま浅く頷いた。
「そうですか。それは良かった」
 童女の気弱な返答に満足そうに微笑んだ咲夜は一度こちらに伺いを立てるかのように視線を配らせた後、
「ではお客様の分も只今用意して参りますので、先に会場へお向かいください」
 私達二人に向けて軽く一礼をして、それから文字通りその場から姿を消した。
 すると、
「!」
 目の前で起きた光景に、今度は純粋に驚いたのか童女は目を丸くして短く息を切らせたのだった。
 そんな童女の初々しい反応に、私は何か少し嬉しいような、誇らしいような気持ちになって、
「じゃあ私達も行きましょう。のんびりなんてしているとせっかくの温かい紅茶が台無しだわ」
 彼女をここに連れてきた時のように、その小さな手を掴んで、気分良く歩き始めた。

「お待ちしておりましたわ、お二方」
 間もなくバルコニーに辿り着いた私達の目の前には、既に咲夜の手によって二人分のティーセットが用意されていた。
「あ……」
 またしても驚きの表情を隠せない様子の童女に、私は嬉々として話し掛ける。
「どう? ウチのメイドは仕事が早くて優秀なのよ」
 その言葉を気にしてか、童女はバルコニーの奥に居た咲夜を、
「あっ……。え、と……」
 小さな瞳を揺らしながら窺い見た。
 そんな童女を気にするでもなく、月の光を浴びて静かに佇む咲夜は、
「お褒めに預かり光栄ですわ」
 童女から向けられた遠慮がちな視線に柔和な笑みで応え、
「───さあ。どうぞお席の方へ」
 さらに私達に着席を促した。
 私は再び童女の手を引いて歩き出し、
「今夜は貴方がこのティータイムのゲストよ」
「え、え?」
 彼女を席へと導いて、次いで自らも椅子に腰を下ろした。
「さて」
 そうして、対面に座る童女の様子を観察する。
 彼女は硬い表情を浮かべたまま、自らの目の前に置かれたカップと、
 淀みのない動作でそれに紅茶を注いでいく咲夜を交互に見遣っていた。
「どうぞ。少々熱いのでお気をつけください」
 一方、童女に声を掛けた咲夜は、そのまますぐに私の分も用意し終え、深い一礼をした後に、一歩後ろへと下がった。
 私は従者のその行動に、今宵の素敵なティータイムの準備が整ったことを告げられて、
「さあ。どうぞ」
 相対する小さな客人にもそれを伝えた。
「……」
 童女は暫く私の顔を見つめていたが、やがて静かにカップを手に取り、ゆっくりと口元にそれを運ぶ。
 小さく震える唇で淡いオレンジ色の界面を僅かに波立たせた童女は、
「あ……」
「何?」
 そこでようやく、
「美味しい……」
 私との出会いから、初めて意思の篭った言葉を誰へとでもなく呟いてみせたのだった。

 月下のティータイムはゆるやかに続く。
「おかわりは如何ですか?」
 空になったカップに気づいて声を掛けた咲夜の勧めに、
「あ……、その……」
 戸惑うように顔を伏せた童女。
 ちらりとこちらに目配せをしてきた咲夜に対して、私はウインクで応じ、
「遠慮はいらないわ。貴方はお客様だもの」
 テーブルの向こうで所在なさげに縮こまっている童女に声を掛けた。
 その間にも咲夜は静かにカップにおかわりを注いでいく。
 目の前で新たに満たされていくカップの様子に、童女は顔を赤らめて、
「あ、ありがとうございます……」
 消え入りそうな声で礼を述べた。
「どういたしまして」
 ポットをあげ、丁寧に返答した咲夜は、
「お気に召されたようで何よりです」
 そう言って穏やかな表情を浮かべる。
 眼前で繰り広げられた可笑しくて微笑ましい一連の光景に、私はすっかり上機嫌になって、
「そうそう。ニンゲン素直が一番よね」
 カップに口を付けながら、そう感想を漏らした。
 そんな私の短評に思うところがあったのか、ポットを置こうとしていた咲夜が僅かに口元を緩ませる。
 それを見逃さなかった私は、
「何かしら、咲夜?」
 わざと高圧的な口調で咲夜に声を掛けた。
 この意地悪な問い掛けにも、瀟洒たる我がメイド長は、
「いいえ。何でもありませんわ。お嬢様」
 少しも動じることはなく、余裕の笑顔で切り返してみせる。
 ───そんな私達のやり取りを不思議そうに見遣っていた童女は、暫くして、
「……あの」
 会話の合間を縫うように、小さく声をあげた。
 私は初めて向こうから話し掛けられたことに思わず興奮して、
「何? 何?」
 思わず身を乗り出してその続きを催促する。
「あ……その……」
 しかし、それが逆効果となったのか、童女は言葉を噤んでしまった。
 私は中腰になった体勢を戻すに戻せず、ただ押し黙って彼女が話を再開するのを待った。
 そうして数瞬の間が流れ、
「……あの」
 童女はもう一度仕切り直しをするかのように息をゆっくりと吐き、
「……どうして……私を助けてくれたんですか?」
 一つの問いを私に向けてきたのだった。
 童女の当然の質問に、しかし然したる回答を持っていなかった私は、
「うーんと……。そうね……」
 不安そうな表情で私の言葉を待っている彼女の様子を一瞥し、
「お茶会の相手に丁度良かったから」
 そう思ったままを口にした。
「え……?」
 私の答えがよほど意外だったのか、童女は驚きを通り越し、唖然とした様子でそう声を漏らした。
 そんな、どこか嗜虐心を擽ってくる反応に、
「何? もしかして、襲われて血を吸われるとでも思っていた?」
 私はつい大仰に口の端を歪めて言葉を続ける。
 そのセリフに、
「……!」
 今度は瞬時に表情を凍らせてみせた童女。
 青ざめた顔で肩を小さく震わせたその姿に、やりすぎたかなと内心で首を捻った私は、
「冗談よ。冗談」
 努めて明るくそう言って、
「ねえ! そんなことよりも」
 満面の笑みを彼女に向けた。
「もっともっと楽しい話をしましょう? だって───せっかくの特別な夜だもの。ね?」
 そんな風に身を乗り出して笑う私に、童女はまだ警戒心を覗かせつつも、
「……はい」
 少しだけその表情を緩ませて、
「……私も、お話がしたいです」
 ゆっくりと頷きを返してくれた。