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Threes!
back広い青空の下、自由気ままに吹く風を小さな背中で感じながら、何処までも、そして何時までも駆けていけると、そう思っていた。
「───それでは、すみません。入って来てくださいー」
扉の向こうから呼び掛けられた私は、その声に返事もしないで、静かに腕を伸ばして引き手に指をかける。
今の心持ちを表すかのように、重く感じるその扉を開き、一歩中へと踏み出した。
微かに聞こえるざわつき。
私は顔を伏せたまま教卓の前まで進む。
人の良さそうな、そして若干気弱そうな笑みを浮かべたクラス担任から白いチョークを受け取った私は、好奇の視線を背中に浴びつつ、黙ったまま黒板にそれを押し付けていく。
カッ、カッ、と乾いた音が止むのと同時に、私は茶褐色の長髪と長い耳を翻して、正面へと向き直った。
「カミヨノカゼです。よろしく」
開かれた視界の先、少し低い位置に居座るクラスメイト達に一礼しながら、私は自分の名前を告げた。
わぁ、と一瞬だけ小さく沸いた室内。
しかしそれから私が暫く黙ったままでいると。
「……ええっと、それだけですか?」
おずおずと、担任が困ったようにこちらに声を掛けてきた。
はい、と短く返すと、彼女は少し泡を食らったように慌てた後、
「あぁ……。えーと、じゃあ、カミヨさんの席は、あそこで───」
最後方の窓際に一つだけ飛び出て空いていた席を指差し、
「分かりました」
私はその台詞を最後まで聞かないうちに示された席へと歩んでいった。
いつしか静かになった教室に、私の足音だけが響く。
椅子を引いて着席。
そのまま顔を上げると、クラスメイトの大半が背ごと振り返って私の方を向いている姿が目に映った。
───だから私は。
「先生」
「ひゃいっ!?」
「ホームルーム。続けてください」
教壇に立つ彼女に呼び掛け、平坦な口調でその目的を伝える。
「ええっと……」
再び狼狽える様子をみせた担任に、私は黙ったまま視線だけを送り続ける。
やがて、
「で、では本日の予定を───」
未だに上ずった声のまま、それでもなんとか手に持っていたファイルを開いてホームルームを進め始めた担任と、それに引かれるようにして、黒板の方へと向き始めたクラスメイト達。
私はその光景を尻目に、窓の外へと視線を移す。
その先に見えるのは、幾つかの建物と、広大な敷地に設けられた楕円状の走路。
我知らず、溜息が漏れてしまい───そして、実感した。
来たくなかったこの場所に、来てしまったのだということを。
「そ、それじゃあ。今日も一日頑張ってくださいっ」
激励の言葉でホームルームを終えた担任が扉を閉めたのをきっかけに、少しずつ賑わい始めた教室。
その喧噪の中で私は、
「なあ、アンタ!」
不意に、甲高い声に呼び掛けられた。
西の方のイントネーションで発せられたその声に、私は窓の外から視線を戻す。
声がした方を向くと、斜め前の席に座っていた娘がこちらに手を振っていた。
私と同じ茶褐色の髪。少し癖の付いたショートカット。
何故か愉快そうに笑う彼女に、私は不審さを感じて、怪訝な声色を隠さずに返した。
「……なにか用?」
そんな私の棘のある言い方に、しかし彼女はそれをまるで意に介さない様子で話を続けてきた。
「アンタの名前。カミヨって、あのカミヨなんか?」
身を乗り出しながら言ってきた彼女の問いに、
「───そうよ」
私は、努めて冷静に返した。
その短い答えに、
「わあ! やっぱりそうなんだ」
「また凄い人が同じクラスになっちゃったよー」
「まあ私らじゃそもそも───」
こちらの様子を伺っていた他のクラスメイト達が俄かに沸き立った。
私はそれらを、敢えて無視して、
「───それがどうしたの?」
眼前の関西弁の少女に向けて、逆に質問を返した。
私の台詞に、一瞬、シンとなる室内。
しかし彼女はそんな雰囲気すらもまるで素知らぬ風で、
「いや、気になったから聞いただけや!」
けらけらと賑やかに笑った。
それから、
「ウチはエトナフォルツァ。エトナって呼んでやっ」
自らをそう名乗って、こちらに手を差し伸べてきた。
「……」
そんな彼女の空気に飲まれるように、私は半ば反射的にその手を握る。
満足気に頷いた彼女は、私の手を握ったまま、
「よしっ。ほらアンタも挨拶しいや!」
そうして彼女の隣、つまり丁度私の前の席へと呼び掛けた。
声につられて、そちらを見る。
そこにあった、青く艶のある長い黒髪がふわりと靡いて、
「エトナ。うるさい」
私の方へと向き直った。
なにか憂いを帯びた、それでいて整った表情。
中性的な顔立ちから、もし髪が短くて長い耳がなければ男性に見えるかもしれないと思う。
そんな出で立ちをみせる目の前の少女は、
「うるさいってなんや。季節外れの転入生に、少しでもフレンドリーに接して緊張を解してあげようとするウチの気遣いやんかぁ」
「余計なお世話。違う?」
隣で不満そうに喚く少女を無視しながら、私を真正面に捉えて端的にそう問うてきた。
彼女の髪と同じくらい、深い色をした黒い相貌に見詰められて、私は───。
「そないイケズな質問、答えんでええで! 回答次第によってはウチ、泣くからなっ」
割って入ってきた大仰な声に遮られて、言いかけた言葉を飲み込んだ。
「空気読めんコイツの名前はルツィドール。ルツィって呼んだってや!」
割り込んできた娘───エトナに肩を組まれ、明らかに迷惑そうな表情を浮かべて眉を顰める少女───ルツィ。
二人のそんなやり取りを何処か遠くの光景の様に眺めていた私は、さっきの質問の答えを一人脳内で反復した。
───余計なお世話。
その通りだ。
私はトレセン学園(この場所)に、なにかを求めて来たわけじゃない。
2.
カチャリという乾いた金属音が、薄暗い室内に小さく響く。
肩に掛けた鞄を下ろしもせずに、そこを突っ切る私。
窓際に寄り、備え付けのカーテンをゆっくりと開くと、まだ高い陽の光が部屋に差し込んできた。
続けて窓を少し開ける。
まだ肌寒い空気に乗って、遠くの方から蹄鉄の音と活気のある複数の声が耳に届いた。
「……」
窓を閉めて、振り返る。
少しだけ明るくなった部屋を見渡すと、入り口の隅に幾つか段ボールが重ねられていて、私はそれに歩み寄った。
一番上のそれを乱雑に開く。
中身を確認すると、それは丁度、衣類を収納していた段ボールで、私は中から部屋着を一着引き出して、無造作にそれをベッドに放った。
鞄を置いて、ベッドに腰を下ろす。
真新しさを感じる白いマットレスの表面を撫でながら、ふと対面に視線を向ける。
視線の先、反対方向の壁際にはマットレスが敷かれていないフレームむき出しのベッドが鎮座していた。
「───よかった」
その光景を捉えて、ふと率直な感想が零れた。
相部屋必須な寮生活で、たまたま在籍数が奇数になったことから宛がわれた一人住まい。
その偶然の幸運に感謝しつつ、私は力を抜いて背中をベッドに預けた。
柔らかに沈む感触に息を漏らしながら、目を閉じる。
暗く閉ざされた視界に、やがて微睡が訪れる。
私はそれに抵抗することなく、静かにゆっくりと意識を手放した。
『トレセン学園に転入しなさい』
そんな唐突な言葉を聞いたのは、おおよそ一か月前。
年が明けて正月が過ぎ、もうすぐ新学期が始まる直前の出来事だった。
『トレセン学園と前の学校にはもう書類は提出している。明日から荷造りをしなさい』
食卓の向こうに座った一人の男性───私の父は、真顔のままこちらの様子を全く伺う素振りなく、端的にそう言い放ってきた。
『───』
私は黙ったまま、一瞬視線を隣に座る母の方に移す。
私に似た長い耳が垂れ下がり、顔を伏せたままの母の様子から、抵抗は無駄だと察した私は、
『───分かりました』
父の方に向き直って、あえて敬語で彼の言葉に返事をした。
そうか、と誰にでもなく呟いた父は、そうして目の前の食事に手を付け始めた。
私と母もそれに倣って箸を進める。
淡々と進む食事。
父も母も、一切の会話も無い。
その中で私が唯一できたのは、暫くは口にすることは無いと思われる、母が作ってくれた料理の味を噛み締めることくらいだった。
「はいよ! お嬢ちゃん!」
ドンッ、というオノマトペが似合いそうな程に大盛りにされた白米が、私のおぼんに勢いよく置かれる。
物思いに耽っていた私は、その快活な声で覚醒し、
「ど、どうも……」
若干気圧されながら答えて、足早にその場所から離れた。
そうして、初めて訪れた寮の食堂の中を、おぼんを携えつつ進む。
思ったよりも仮眠が深くなってしまい、遅い晩御飯となったせいか、食堂の人気は疎らで、どこに座っても一人で食事が取れそうだった。
適当な場所を見つけて腰を下ろす。
手を合わせて軽く礼をし、食事を始めようとしたところで───。
「おっ! ノカゼやん!」
なにやら後方から騒がしい声で自分の名前を呼ばれた。
思わずそちらを振り向くと、見覚えのある茶褐色の髪の少女が大袈裟にこちらに手を振っていた。
一体どう返事をしたものか、私が迷っている間に、その少女はすぐにこちらに近寄ってきて、
「よっこらしょっと」
「ちょ、ちょっと!」
なんの断りもなく、私の対面におぼんを置いて席に着いた。
他の席も空いているでしょう、と私が言おうとするよりも早く、
「うん? 自分、食べへんの?」
早くもおかずの唐揚げを頬張りながら、きょとんとした表情を見せた彼女───確か、エトナフォルツァと名乗っていた少女は、続けて味噌汁を啜りながら不思議そうに問いかけてきた。
「いや、席を───」
「あっ!」
再び私が苦言を呈しようとする間も無く、立ち上がった彼女。
そのまま小走りでカウンターの方へと駆け寄り、
「おーいルツィ! こっちやー!」
「一人で食べたいんだけど」
「なんや、そない寂しいこと言わんといて!」
声を掛けられて、明らかに嫌そうな顔をみせた長髪の少女───ルツィドールに馴れ馴れしそうに肩を組みに行った。
「……はあ」
この隙に別の席に移ろうかと一瞬本気で考えたものの、転入初日で流石にそこまでの態度を取るのはどうかと思い直して、
「ほらほら。今日は話題の転入生はんもご一緒やで?」
「興味ない」
「まーた空気読めない発言してこの子は! せっかくなんやから親睦深めようやー」
ひとまず今日は観念して、三人で卓を囲むことに決めた。
「構内はもう回ったんか? 凄い設備やろこの学園は!」
「どうして貴方が自慢げなのよ」
騒がしい会話が続く中、食事を続ける。
といっても、騒がしいのはほぼ眼前の関西弁の少女だけでで、
「いやいや、ウチはただ先輩として紹介をしてるだけで───」
「先輩とかない。同じクラスでしょ」
「いや確かにそうやけど! そうじゃないねんなー……」
早口でまくし立てる彼女に、その隣に座った黒髪の少女が時折辛辣な返しをする様を、
「……」
私は多少呆気に取られつつ眺めていたのだった。
さらに人数が減った食堂。
いつの間にか時計はかなり遅めの時間を示していた。
「ねえ」
そこでふと気になったことを、私は二人に問い掛けてみた。
「二人とも晩御飯はいつもこんな時間からなの?」
次からは食事の時間帯をずらそう───そんな裏の意図を持った私の質問に、
「そやで」
「そう」
二人の少女は、特に気にした様子もなく簡単に答えを返してきた。
続けて、
「トレーニング終わって、ひと風呂浴びてきたら、だいたいこれぐらいの時間やな、ルツィ?」
「貴方はお風呂で遊びすぎ。もっと手早く入れば、早く食事もできる」
「乙女心が分かっとらへんなー、この子は。 アンタのトレーニング終わりを待ってるんやん?」
「え……。じゃあ次からは先に御飯食べよう」
「なんでやねん!」
いつの間にか漫才のようなやり取りを繰り広げていた二人を見ながら、ふーんと私は独り言ちる。
トレーニング、ね。
もう一度食堂を見返すと、とうとうそこに居るのは私達だけになっていて、
「……そんなに遅くまでトレーニングしてるのね」
「ん? なんか言うた?」
「いえ、別に」
彼女達───少なくともルツィという少女の方は、他の少女達よりも遅くまでトレーニングをしていることが伺い知れた。
「そうそう。ウチらともかく、ノカゼはなんでこんな時間に飯食ってたんや?」
そんなことを考えていると、デザートのりんごに爪楊枝を差しながら、正面に座る少女が私に話を振ってきた。
「部屋に帰ったら、寝てしまって」
特別隠すことでもなく、私がそう正直に答えると、
「まあ転入初日は大変やろうな。色々環境変わるやろうし」
おー、と彼女はなにか納得したように首を縦に振ってみせるのだった。
「こういううるさい奴もいるだろうし」
隣する少女が湯呑を傾けながら、しみじみと言う。
「ちょおーい!」
そんな傍らにオーバーな反応を返した少女は、
「しっかし───」
と、一旦貯める様に言葉を区切って、
「自分、なんで転入してきたん?」
率直に、そんな言葉を私に投げ掛けてきた。
朗らか表情ながら、まっすぐにこちらを見詰めてくる瞳。
まるで私を推し測ろうとするかのような視線。
それに私は、
「───」
ただ一つの答えとして、沈黙を返した。
そうして数瞬、あるいは数秒。
「あーっ! すまん! そろそろ食堂閉まる時間や!」
突如、目の前の少女が大袈裟な声を上げて立ち上がり、
「なんやつい色々喋り過ぎたわ! ほらルツィ、のんびり茶しばいてんと、はよ片づけ!」
まだ手を付けていなかったりんごを口に放り込んで隣の少女を促した。
「そうね。喋り過ぎ、貴方」
一方、呼び掛けられた少女は、あからさまに辟易とした様子で溜息交じりに湯呑を置いて、
「騒がせたわ」
私に一声を掛けた後に、ゆっくりと席を立った。
「せや!」
不意に、先にカウンターの方に向かっていた少女がこちらに振り返りつつ、言う。
「もし困ったことがあったら、ウチらの部屋の来てや! 引っ越しの荷解きでもなんでも手伝うで!」
一層と快活な声で食堂内に響いたその言葉に、私はふと引っ掛かりを覚えて、
「ウチら?」
まだ目の前に居た少女に問い掛ける。
彼女はその質問に、
「そう」
短い一言で答えて、
「貴方、一人部屋でしょ。羨ましい」
続けて眉を顰めてなにやら恨めしそうに呻いた。
それからすぐに、
「おーい、ホンマに帰るで!」
遠く、食堂の入り口から投げ掛けられた声に催促されるように歩き始めた彼女。
私はその背中を目で追いかけながら、
「やっぱり時間はずらそう……」
急に沸いてくる疲労感に、深い溜息を漏らしてしまうのだった。
はっ、はっ、はっ。
短く息を継ぎながら、幼い少女が走る。
一人で、しかしなにかに追われているかのような切羽詰まった顔で、青い芝の上を駆けていく。
遠くから聞こえる、誰かの声。
その声が少女の長い耳に届くやいなや、その表情はさらに険しくなり、
『───ッ!』
少女はさらに鋭く加速する。
風を切り、駆け、駆け。
いつしか少女は一区切りを駆け抜けて、速度を落として立ち止まった。
紅潮した顔のまま、声がした方へ振り向く。
『……』
しかし、そこには誰も居ず───彼女は再び前を向いて走り出す。
再び聞こえる声。
少女はもう一度加速する。
薄曇りの空の下、そんな光景は何度も何度も繰り返されるのだった。
───ジリリリリリリッ!!
「ッ!?」
聞き慣れたアラームが、聞き慣れない時間に鳴る。
思わず飛び起きた私は、スマホの画面を覗き込んで、予定通りの起床時間から外れていないことに安堵した。
転入前までの時間よりも少し早く仕掛けたアラームに叩き起こされた私は、徐に身を起こして、
「……うわ」
身に纏わりついてきた肌着の感触に、冬にも関わらず酷い寝汗を掻いていたことに気が付いた。
気だるい内心を叱咤するように布団を跳ね除けた私は、続けて換気をしようと窓辺に寄ってカーテンを開ける。
差し込んできた朝日に目が眩みそうになりながら窓に手を掛けると、ふと眼下の玄関先に、一人の少女の姿を見つけた。
転入二日目、まだこれといった知り合いが居ない中でも、なんとなく思い当たるその後ろ姿に、
「……」
私は言い難いものを感じて、つい窓を開けずにそのままカーテンを閉めた。
俯いて、目を閉じる。
ぼんやりと、先ほどまで見ていた夢の光景が浮かんでくる。
「はあ……」
疲れていると、悪夢を見やすいというのは、本当なのだと感じた。
「とりあえず、顔洗わなきゃ……」
額に手をやってみると、じわりと浮かんだ汗の感触に嫌気が差す。
暗さが戻った室内を横断し、部屋の隅の段ボールからタオルを取り出した私は、晴れない気持ちを引きずったまま部屋を出て洗面所へと向かっていった。
昨夜とは打って変わって、一人で静かな朝食を済ませた私は、軽く身支度を整えた後に寮を出発した。
道沿いの看板に書かれた、寮から学園まで距離に、その近さを有り難く思いつつ、ふと去年まで通っていた学校のことが思い起こされる。
この距離の倍はあった通学路。
もう歩くことはない道。
今更ながら、ここを歩くことになった現状に、
「……っ」
衝動的に、駆けだしてしまいそうになった瞬間───、
「あっ!」
「おっと……!」
気が付かないうちに、前方から歩いてきていた人にぶつかりそうになってしまう。
上から降ってきた声に、思わず視線を上げると、
「……大丈夫か?」
訝しそうな表情を映した男性の顔がそこにあった。
短く刈り揃えられた黒髪を携えた彼は、固い表情のままこちらを覗き込んでくる。
「だ、大丈夫……!」
私は思わず飛びのき、彼から一歩、二歩離れた位置にあとずさった。
「それなら良い」
そんなこちらの焦りを気にしていない様子で、男性は黒いスーツの上着を軽く手で払って歩き出し、まだ落ち着きを取り戻せない私を通り過ぎようとしたところで、
「ちょっとー……。どこ行くんですか……」
不意に私達の前方から聞こえてきた声に合わせて立ち止まった。
私も聞き覚えがあるその声に、
「……俺の勝手だろう」
彼は乱暴な口調でそう返事をした。
ほどなくして駆け寄ってきた声の主───私のクラス担任に、
「あの、これ。この提出書、明日までに出してもらわないと困りますよぉ」
「……俺にはもう関係ない書類だと言わなかったか?」
「だからぁ…。トレーナーの皆さんは全員提出なんですってばぁ……」
なにやら書類の束を渡されそうになって、それを無理やり突っ返していた。
蚊帳の外ではあるものの、なんだか無言でこの場を離れ辛くなってしまった私は、
「ですからぁ……って、あれ? カミヨさん?」
「お、おはようございます」
そのまま暫し様子を伺っていたところ、ようやく私に気付いたクラス担任に声を掛けられて挨拶を返した。
「なんだ、お前のクラスの子か」
私達の関係を察したらしい男性の言葉に、
「はい。カミヨノカゼさんと言います。昨日からの転入生なんですよぉ」
彼女は、それまで押し問答をしていた相手とは思えないほど呑気な笑顔を向けて、そう私を紹介した。
そうか、とだけ返した男性は、それからなにかを思いついたような表情を一瞬浮かべたあと、
「せっかくだから二人で一緒に登校したらどうだ? 転入生なんだったら、まだ学園に慣れていないだろう」
わざとらしく手を叩いてみせつつ、隣のクラス担任にそう言った。
「あっ。そうですね! カミヨさん、いいですか?」
彼の提案に、それは名案とばかりに相槌を返したクラス担任は、私の方に歩み寄りながら笑顔をみせてくる。
「はい。良いですけど……」
話を逸らされたことに気づいていない彼女に生返事をしながら、
「……じゃあ俺はこれで」
私はその場から離れ行く黒スーツの男性の背中を見送ったのだった。
「先生、さっきの人は?」
そうして、男性が去った後。
図らずして同行することになった担任に、さきほどの彼の素性を問うた。
「あぁ。彼は───」
隣を歩く担任は、私の問いに頷きを返して、
「トレーナーです。私とは同時期に学園に赴任した人で」
「同期ってことですか?」
「トレーナーと教員なので、同期という感じはあまりないのですけど」
道行に、彼の話を続けた。
「もともと優秀なトレーナーなんですが……」
「なにかあるんですか?」
「その、ここ数年トレーナー業をしていなくて……。噂では今年ライセンスの更新をしないかもって言われていて……」
俯き加減に話す担任に、私が聞いていい話だったのか内心戸惑っていると、
「す、すみません! こんなこと、生徒に話すことではなかったですよねぇ……」
彼女の方もそれに気付いたのか、申し訳なさそうにこちらに謝ってきた。
いえ、と短く私が返すと、暫く二人の間には沈黙が流れた。
話題に困っているのか、歩きながらこちらの様子をチラチラと伺ってくる担任。
そうこうしているうちに、いつ間にか正門の近くまで辿り着いてしまった。
「あ、じゃあ私はここで……」
「いえ、有難うございました」
バツが悪そうに退散しようする担任に、一応の礼をした私は、
「ああ、そうだ」
そこでふと、あることを思い出して、彼女に声を掛けた。
「……? なんですかぁ?」
こちらに振り向いた担任に、私は、
「今日の実技、見学します。体調が優れないので」
平坦な口調で、端的に用件を伝えた。
「はいー。分かりましたぁ……」
一度、うんうん、とにこやかに頷いた彼女が、
「って、えぇぇ!?」
狼狽えた大声を上げるのには、さほど時間は掛からなかった。
左から右に、高速で流れてく蹄鉄の音。
周囲に飛び交う活気のある声援。
私はそれを近い場所で、だけど遠くに感じながら、地面に腰を下ろしたまま見詰めていた。
実技、すなわち走りの授業。
学園では毎日行われるこの授業を見学し始めて、一週間が過ぎていた。
「やぁああああっ」
「くうっ。もう無理ー!」
「頑張ってー!」
併せ形式で走る二人のウマ娘には、クラスメイト達から彼女らを応援する言葉が頻繁に届けられていた。
「ゴール!」
「あーっ。悔しいっ」
「お疲れ様ー」
ちょうどゴール板を過ぎて走り抜けた二人の元に、クラスメイト達が歩み寄って周りを囲む。
「お疲れ様でしたぁ。お二人ともー。大変良かったですよぉ」
その輪の方に、クラス担任が労いの言葉を掛けながら近づいていった。
担任からの助言に、熱心に耳を傾けている彼女達の横顔から視線を逸らした私は、ふと遠い空を見上げた。
まだ冷たい空気が辺りを包み、だけどどこか遠くから春の匂いが近づきつつある、そんな気配。
彼女達にとって、もうすぐ大事なシーズンが始まることを予感させる、そんな陽気の中───。
「……」
走ることを拒否した私は、ただ地面に座り続けている。
目を閉じて、思い起こす。
私は、いつ頃まで、彼女達のような表情で走っていたんだろう。
記憶の片隅にある、まだ物心が付く前の私は、確かにそんな顔をして、走ることをただ楽しめていたような気がする。
だけど、すぐに次に浮かんでくるのは───。
「ねえ」
「っ!?」
急に近くで聞こえた声に、私は唐突に思索を中断させられた。
慌てて声がした方を向くと、私の背後に一人のウマ娘が立っていた。
黒髪のウマ娘、ルツィドール。
驚いたまま、その顔を見ることしかできない私に、
「どうかした?」
彼女は逆にこちらを訝しんでくるような口調で首を傾けた。
「いや、いきなり話し掛けられたから……」
私の至極当然の反論に、彼女は、そう、とだけ呟く。
───一瞬の静寂。
「……ねえ」
それを破ってきたのは、
「貴方、走らないの?」
少女の、真っ直ぐな瞳だった。
「……は?」
彼女から率直な質問に、つい声が漏れた。
そんな私の様子に、しかし彼女は動じずに、こちらを静かに見詰めてくる。
その視線が、あまりにも純粋で。
私は我知らず、それから逃れるよう目を背けつつ、
「……体調が良くないから。それだけ」
彼女の問いに答え返した。
「貴方こそ、あっちに戻らなくていいの?」
まだ授業中であった筈の少女に、私はクラスメイト達の方を指し示しながら聞くと、
「先生が職員室から呼び出されて、自習になった」
彼女は短く私の質問に返事をした後、
「でも、それならよかった」
「……?」
なにがよいのか、突拍子もない台詞を紡いだ。
「あのね」
彼女からすぐに次の言葉が投げ掛けられる。
「貴方にお願いがある」
「お願い?」
まだ顔見知り程度のクラスメイトから、いきなりなにかをお願いされるというシチュエーションに、どうしても不信感を拭えないままの口調で私が問い返すと、
「私、一人部屋が欲しい。だから」
彼女は、私を見詰めるまま、
「体調が良くなったらレースで勝負しよう。私が勝ったら、私と部屋を交換して欲しい」
そんな、荒唐無稽な一言をこちらにぶつけてきた。
「……は?」
思わずもう一度声が漏れる。
いきなりの意味不明な彼女の要求に、
「ちょっと待って。どういうこと?」
私は、今度ははっきりと疑念を声に滲ませて聞き返した。
私に怪訝な視線を向けられた彼女は、けれども平淡とした表情を崩さないで、
「私、本気でトリプルティアラを取りたいの」
「……!」
また一つ唐突な台詞を放った。
ウマ娘であれば、一度は憧れるとされる頂。
華々しい女王の栄冠を、彼女は勝ち取りたいのだと宣言してきた。
思わず彼女の表情をまじまじと見遣る。
感情の薄いポーカーフェイスを携えたままの少女。
しかしその瞳に、確かに強い意思のようなものを感じた私は、それに気圧されるように、
「そ、それが部屋を交換するのとなにが関係あるのよ?」
彼女から視線を外しながら言い返す。
なおも私を見続ける少女は、
「トリプルティアラを取るために、万全を期したいの。一人で集中できる環境が欲しい」
私には我関せずといった感じで、淡々と自分の要望を口にする。
「私の同室、いろいろと煩いから」
彼女がそう言った矢先、タイミングよく少し離れた場所から関西弁が混ざった楽しげな声が聞こえてきた。
クラスメイト達と談笑しているらしいその笑い声に、
「ね?」
と、眼前の彼女が嘆息交じりに言う。
彼女との突然な応酬の中で、初めてその内容に同意できた私は、少しだけ自分を取り戻して、
「貴方の言いたいこと、大体は理解できたけれど」
彼女の方に向き直り、
「悪いけど、嫌よ」
その瞳を見詰め返しながらそう答えた。
「どうして?」
そう聞き返してくる彼女に、
「だって、私にメリット無いじゃない」
彼女の誘いの盲点を突いて返せば、
「メリット?」
不思議そうに再び問い返してくる。
一体なにを不思議に思っているのか、逆に私の方が不思議になり、
「貴方が勝ったら私と部屋を交換する。じゃあ反対の場合は?」
敢えて対比を交えて、丁寧に彼女の無茶苦茶な提案に異議を唱える。
しかし───。
「……?」
まだ、不思議そうな表情を浮かべたままの少女。
そんな彼女の様子に、私はまさか、と内心で驚愕しつつも一つの解を得た。
───負ける訳ないと思ってるんだ。
改めて彼女の表情を伺う。
意思が読み取りにくいその表情からは、私のことを見下しているような無作法な態度は感じ取れない。
だけど───。
「……分かった」
「え?」
どうしてか、それが逆に私の癇に障った。
徐に立ち上がりながら、私は彼女に言う。
「いいわ。勝負しましょう」
スカートの裾を払って、彼女を真正面に捉える。
そうして、
「今すぐやりましょう。ちょうど先生居ないんでしょう?」
彼女にそう提案すると、
「……今すぐ? 体調は?」
若干の動揺を見せつつ聞いてきた彼女に、
「一回走るくらいは問題ないわ」
今度は私が有無を言わさないように端的に答える。
「ああ、それから」
私は続けて彼女に───。
「私が勝ったら、トリプルティアラは諦めて」
そう、思いついたままを感情に任せて言った。
広い芝生のコースの上に、冷たい風が一陣吹き抜けた。
「……んっ」
その風を背に受けつつ、二、三度屈伸をして体を解す私の隣には、
「───」
大きく深呼吸を行う、黒髪の対戦相手の姿があった。
遠くのゴール地点の方から、クラスメイト達のどよめきが引っ切り無しに聞こえてくる。
ずっと見学していた私が突然走り始めることに動揺する声も多いが、それ以上に───。
「ルツィさん、本気で走るのかな?」
「どうなんだろうね。楽しみー!」
傍らの黒い少女への注目があった。
「……」
私は身体を伸ばしながら、隣する少女の様子を盗み見る。
彼女の顔は、さっき会話をしていた時から変わらない無表情のままで───私が勝負を受けるのに求めた条件にも、特に動揺はしていないようだった。
「そろそろ走る?」
私の視線に気づいたらしい彼女が、そう簡単に言ってのける。
私はそんな彼女の様子に、また少しだけ胸の奥にざわつきを覚えて、
「───ええ。いいわ」
彼女から視線を外しながら、短くそう答えた。
「じゃ、じゃあ二人とも準備してください」
私たちのやり取りをコース脇から聞いていた、スタート役を買って出てくれた少女が、手にした旗を天に掲げる。
一瞬、周りから雑音が消える。
「よーい……スタート!」
大きな掛け声とともに振られた旗がバサッという音を立てるのと同時、私は、
「ッ!」
勢いよく地面を蹴ってターフを駆けだした。
向こう正面の中間付近からスタートした私は、少し遠くに見えるコーナーに向かって加速していく。
視界を流れる景色が徐々に速さを増して、良いスタートを切れたことを実感した私は、後方から響く足音に注意を向ける。
一バ身、いや二バ身……?
音を頼りに相手の気配を探りながら進む。
ほぼ真後ろについてきている彼女の足音を聞き取りながら、私はまた一段ギアを上げて、後ろとの距離を引き離しに掛かった。
対戦相手───ルツィドールの得意な脚質は差し追い込み。
一週間見てきた授業の中でも、彼女の末脚は周囲とは桁違いの鋭さを放っていた。
対する私の脚は先行差し。
必然、私が前、彼女が後ろになることは予想済みで、今のところ想定通りにレースが進んでいる。
コーナーに差し掛かり、外に膨らみそうになる遠心力を堪えながら、さらに前へ駆ける。
彼女との距離は概ねそのままキープできている。
これまで私が見てきた彼女の末脚なら、十二分なセーフティリードだ。
後はクラスメイト達が言っていた、本気というのがどの程度なのか。
既に担当トレーナーが付き、トゥインクルシリーズに参戦している彼女は、実習中の走りではリスク回避のために、ある程度走力をセーブしているらしいが───。
余力は……十分っ!
一足先にコーナーを抜けて、最終直線に到達した私。
自らを鼓舞するかのように、強く大地を踏み締める。
姿勢を低くして、ぐんっと前へ。
さあ、後は全速力で───と意気込んだ瞬間。
「!?」
不意に、背後から強烈な威圧感を覚えて首を後方に振り向けた。
コーナーの出口、その芝の上で───。
「ッ!!」
黒い少女が、狩人のような鋭い視線をこちらに向けていた。
まるで殺気のようなプレッシャー。
思わず息を飲み込む。
しまった、振り返らなければよかった。
このままじゃ───!
食い付かれる、と思った瞬間、
「こらぁ! 貴方達なにをしているんですかぁ!」
突然周囲に響き渡った大声に、私の思考は遮られたのだった。
「……」
いつもより重く感じられる扉を開いて、私は自室に入り電灯のスイッチを入れた。
LEDの柔らかな光が室内を照らしてくれて、私は急に疲労感に襲われて着替えもせずにベッドに突っ伏した。
翻ってただ天井を見詰める。
そうして無言でいると、じわじわとある後悔の念が押し寄せてくる。
どうして、彼女の勝負に乗ってしまったんだろう。
数時間前の、トレーニング場での光景が蘇ってくる。
売り言葉に買い言葉のような稚拙なやり取りのまま、タイマンでのレースを始めてしまい、その途中で戻ってきたクラス担任に見つかってしまった。
その場では短い注意を受けただけだったが、放課後に改めて呼び出しを食らい、反省文の提出を求められ、結果陽が落ちたこんな時間にまで後を引く出来事になった。
「バカなこと、した」
独り後悔を乗せて呟く。
とりあえず着替えようと半身を起こした、丁度その時。
「……」
スマホから着信音が鳴り、鞄に手を伸ばしてそれを取り出した。
その着信画面に表示されている発信先の名前を見て、思わず顔を顰める。
そうか、もう耳に入ってしまったのか。
改めて自分の行為を悔やみつつ、私はできれば押したくない受話器のボタンを押して、その向こうにいる相手に話し掛けた。
「なにか用なの───父さん」
私の呼び掛けに、
「なにか用とは……。分かっているだろう」
電話越しに届く男性の声は、いつもの平淡なものよりも、少し怒気を孕んでいるように聞こえた。
男性───私の父の方から話が続けられる。
「学園から連絡があった。特に体調に問題がない中、嘘をついて走りの実習に参加しなかったらしいな。挙句の果てに担任が居ない間に勝手にコースを使用した、と」
父の言葉に、私はなにも返さずにただ黙ってその話を聞く。
「一体なんのつもりでそんなみっともないことをしている? お前を学園に行かせた意味が分かっているのか?」
あくまで静粛に、しかし確実に私を責める論調を崩さずに話をしてくる父に、私は無言を貫いた。
そうして、何口かの小言を受け流した後。
「……これだけ言っても響かんとはな」
やがて、匙を投げたような呟きがスピーカーから零れてきた。
「……」
その言葉にも私は沈黙を返す。
それから続く父の言葉。
「そんなに走るのが嫌か?」
その一言に、私は、
「そうよ」
とだけ返した。
「……そうか」
父の、溜息交じりの短い相槌。
暫くして。
「もうお前には期待せん。好きにしなさい」
父の口から、諦観の台詞が放たれた。
「……っ」
その一方的な言い草に、私は衝動的に言い返したくなって───出掛かった言葉をなんとか胸の内に納めた。
反論をしたところで、話が無駄に長くなるだけ。
そう自分を落ち着かせていると、電話口から父の新たな言葉が届けられた。
「ああ、だがせめてトリプルティアラの3つのレースにだけは出走しなさい。それだけ果たせば、もう私はなにも言わん」
トリプルティアラ、すなわち女王を目指す3つの大レース。
そこに出走さえすれば、結果はどうでもよい、ということか。
家のメンツを気にする父の……最大限の譲歩と言っていい指示に、
「……分かりました」
私は、自らの感情を押し殺したまま、そう短く返事をした。
───それから、数言だけをやり取りして、電話を切った私。
待ち受けに戻ったスマホの画面を見続ける私は、やがて徐に立ち上がって、スマホを机の充電スタンドに置いた。
ふと、カーテンの隙間から窓の外を見る。
トレーニング場へと続く眼下の道には、トレーニングウェア姿の少女が一人。
「……今日も走ってる」
毎夜のように夜間トレーニングに出掛ける、もはや見慣れた後姿に、私はさっき別れたばかりの筈のその背中を見詰める。
「決着は、トリプルティアラのレースで。ね……」
反省文を二人して職員室に届けた別れ際で、黒髪の少女が私に言った台詞を思い出して口にする。
競争を始めた経緯を知った担任が、賭け事のようなことはするなと咎めた際、少女は彼女にしては珍しく感情を顔に出して、渋々といった様子でその注意を了承していた。
それにも関わらず、放たれたあの台詞。
まだ彼女はあの条件を諦め切れてはいないのか。
窓の外、離れていく背中に疑問符を投げ掛けるかのように、私は暫くそちらを眺め続けていた。
「残念だけど、ウチのチームはもう手一杯なの。他を当たってみてちょうだい」
何人目かの異口同音を聞いた私は、相対したトレーナーの女性に軽く一礼をしてその場から離れた。
父から勘当と言い換えてもよい指示を受けた私は、それからこうして自らを担当してくれるトレーナー探しを始めていた。
本来であればトレーナーの方からのスカウトを待つのが一般的だが、一刻も早くデビューをしてトリプルティアラ路線を進みたかった私は、こうして自分の足でトレーナーを探そうとしていた。
しかし───その進捗は頗る芳しくなく、探し始めてからもう一週間が立とうとしていた。
トレーナーリストを片手に、今断られた人にバツをつけて、次に目を付けていたトレーナーの部屋へと赴く。
廊下を進み、幾人かの生徒とすれ違えば、ひそひそとした内緒話が聞こえてくる。
「あの子でしょ。実習サボってたのバレた子───」
「そうそう。しかも同じクラスの子となんかトラブルってたんだって───」
「その相手って、ルツィって子でしょ。ほら、今年注目の───」
敢えてそれらに気が付いていないように振舞い、真っ直ぐと目的地に向かう。
失礼します、と一声掛けて入室した先、ソファに腰を掛けていたベテラン風のトレーナーに話をしてみるが、
「あー、キミか。悪いけど、問題起こすような子はウチのチームには不要でねぇ」
取り付く島もない、といった風に先んじてお断りの言葉を投げ付けられてしまった。
「分かりました。失礼します」
歓迎されていないことを即座に理解した私は、そう言って頭を下げて部屋から出て行こうとする。
すると、
「キミの素行に関わらず、今はどのトレーナーも忙しいと思うよぉ。それに───」
背後にしたトレーナーから二の句が続けられた。
「なにかキミ、ルツィドール君に勝つとかなんか言っちゃったんでしょ? そりゃ無理だと思うよぉ。今年のトリプルティアラは諦めた方がいいね、うん」
聞いてもいない忠告まで頂いた私は、もう一度振り向いて、
「ご忠告ありがとうございます。失礼します」
再度深々と頭を下げて、それから部屋を退室した。
扉を閉めて、数歩その場から進み、トレーナーリストにバツを打って、次の候補者の元へと急ぐ。
放課後の空を照らす太陽は既に傾き始めていて……今日はあと何人と話せるだろうと歩調を速めた。
すっかり陽が落ちた帰り道。
寒い夜空の下を独り歩く。
一撫で吹いた寒風に、コートの襟を掴んで深く着直した。
「……」
結局、今日もトレーナー探しは上手くいかなかった。
たくさんのバツが付いたトレーナーリストを思い起こしながら、もうあまり候補者が残っていない事実を噛み締める。
先日私が起こした事件は、私が思っていた以上に尾を引いてしまったことに、知らず溜息が零れた。
私の白い吐息が、闇夜に消えた。
私は不意に立ち止まる。
なぜ、こんなことをしているのか。
なぜ、こんなことをしないといけないのか。
頭の中が疑問符で埋め尽くされる。
なぜ、なぜ───どうして!
瞬間、抑えきれないものが爆発して、
「ッ!!」
なにもかもを放り出して、駆け出してしまいそうになった───そんな私の後ろから。
「おい、なにをしている?」
聞き覚えのある声が、私の耳に届けられた。
「ほら。受け取れ」
「あ、ちょ、ちょっと!」
膝の上で手持ち無沙汰に空いていた私の手に、無造作に温かな缶が差し込まれた。
落さない様に慌てて握ったそれはじんわりと温かく、冷えた指先には少し熱すぎるくらいだった。
ベンチに座る私に、隣の自販機で購入した缶コーヒーを渡してきた主は、そのまま自分の分も買って、プルタブを起こして一口それを呷る。
ふう、と息を零した彼に倣って、私も渡された缶コーヒーを口にした。
糖分入りの缶コーヒー特有の甘ったるさが、舌を包み込む。
こくりとそれを飲み干せば、冷え切った喉をその熱が通り過ぎて行った。
「で、なにをしていた?」
いつの間にか私の正面に周っていた男性が、静かにそう問い掛けてきた。
「なにしてたって聞かれても……。別にただ寮に帰る途中よ」
脈絡なく聞かれた問いに、私は心根を隠しつつ、ありのままの様子を答える。
「そうか」
目の前の男性───学園のトレーナーの一人である彼は、私の答えに短く頷いて、
「ならいい」
そう言ってまた一口コーヒーを啜った。
それから、
「良家のお嬢様は大変だな」
もう一度、私に声を掛けてきた。
「……それがどうしたの?」
急にお嬢様呼ばわりをされた私が、怪訝な口調で聞き返した矢先に、
「───走りたくないんだろう」
「……え?」
「ただ走りたくないんじゃない。この学園にすら居たくない……そうだろう?」
唐突に彼から放たれるネガティブな台詞。
その言葉に私は思わず息を詰まらせた。
彼が続ける。
「そんなウマ娘がどうして学園にいて、急にトレーナー探しなんてしてるんだろうな」
「……」
思わず俯いてしまった私を、ただ黙って見詰めてくる彼。
そんな彼の様子に───私は静かに、重い口を開いた。
「私は……走るのが嫌い」
「そうか」
「多分最初は好きだった。小さい頃は、好きだったと思う。けど……」
私は独白を続ける。
「私が走る時には色んな大人達が横に付くようになって。そうじゃない、ああしろ、こうしろ、こう走れ、勝つためには───。なんて、煩いことが増えて」
「……」
「それで、いつの間にか走るのが嫌いになった」
私は知らないうちに両手で握りこんでいた缶コーヒーを片手で持ち直して、一度それを口に運ぶ。
「トレセン学園の入学を蹴って、普通の学校に行って、そこまでは良かったけれど───年末に父親が無理やり転入の手続きを済ませてしまったわ」
「それはまた、随分だな」
彼の感想に、でしょう? と力なく笑い返す。
「それまでも色々父親とは言い合ってきたけれど、もう私も諦めて入学だけはすることにした」
「ああ、だから……」
「そうなの。せめて走ることだけはしたくなくて、実習をサボってた」
頷く彼に、私は返事をしてさらに言う。
「でも、サボってたのがバレてしまって。とうとう父から呆れられたわ。もう好きにしろって。でも一つ条件が出されたの」
「条件?」
そう聞き返してきた彼に、私は先日の父との会話の内容を伝える。
「なるほど。それで急にトレーナー探しなんて始めたのか」
納得したように呟いた彼に、私はええ、とだけ返して、最後にコーヒーの残りを飲み干した。
暫く二人の間を静寂が包む。
やがてふと、私は一つ気になったことが思い浮かんで、彼に問い掛けた。
「ねえ」
「なんだ?」
「……どうして、分かったの?」
ゆっくりと顔を上げて、彼の表情を伺う。
月明りと自販機の淡い灯りの中、はっきりとはしない面影のまま、
「俺と同じだからだ」
「え?」
彼は端的にそう答えた。
「あいつから聞いたかもしれないが、俺はもう学園を辞めるつもりだ」
あいつと言うは……クラス担任のことだろう。
私は以前クラス担任から聞かされた噂話を反芻し───当事者の口からそれが真実であることを知る。
「今年のライセンス更新はしない。……給料が良いから、ライセンスが続く今年一杯は居るつもりだが」
「……そうなんだ」
「ああ」
思わず零れた私の声に、彼はきっぱりとした口調で応えた。
「だからお前の話を耳にして、大体の事情は察せた。俺と同じで、学園に居たくない故の行動なんだろうとな」
「……」
いつしか飲み干していた缶を、彼は自販機の横のゴミ箱に捨てながら、そんな風に言ってのけた。
それから、まだ私が名残惜しそうに握りしめていた缶を差して、
「空いてるなら、捨てるぞ」
「え、ええ……」
ひょいとそれを奪い取り、同じようにゴミ箱の中に放った。
再び訪れる静寂。
───それを破ってきたのは、
「お前のトレーナー、俺が引き受けてやる」
「え?」
予想だにしない、彼の一言だった。
「貴方、トレーナー業はもうしていないんでしょう?」
先ほどの発言と全く嚙み合わない急な言葉に、私は思わず前のめりになって突っかかる。
そんな私の姿に、彼は特に様子を変えないまま、
「辞めるとはいえ、まだトレーナーだ。仕事をしていない人間には、それ相応の面倒が付きまとうんだ」
そう口に出してから、
「この間みたいにな」
自嘲気味に、ふ、と笑ってみせた。
この間というのは───私のクラス担任と一悶着していたあの日のことか。
私の、ああ、という納得した頷きに、彼は再度苦笑した後、
「辞めるために走ろうとするお前には、丁度良いトレーナーだと思うが、どうだ?」
真っ直ぐに、こちらに視線を向けてきた。
「私は……」
私の回答を、ただ静かに待つ彼。
月を遮るように立つ彼の表情は、淡い月光が作り出す影のせいで正しく認識することができない。
───それでも。
「分かったわ」
私はベンチから身を起こし、彼の前に立った。
「そうか。じゃあ短い間になるだろうが、よろしくな」
「ええ。よろしく」
私はそのたった二言だけで、目の前の男性とトレーナー契約を交わした。
私と彼、お互いにとってこの契約は、そんな短いやり取りで終わってしまうほどに軽く、重要性の低いものだった。