sample
Threes!
back片手に持ったストップウォッチに目を向ける。
「よし」
そこに刻まれているタイムを確認して、続けて右上に備わるボタンをカチりと押し込みつつ、同時にもう一方の手を空に向かって掲げた。
その瞬間に、一際大きな脚音が立つ。
遠くで鳴ったその音は、瞬く間にこちらへと迫り───。
カチッ。
そして一瞬で目の前を走り抜けていった。
「どれ……」
反射的に停止ボタンを押したストップウォッチを今一度見る。
小さな画面に表示されている全体のタイムと、右上のラップタイムを確認し、足元に置いていたノートにその記録を書き込む。
何行にも渡って書き記された数字、その一番下に書いたものを改めて確かめて、
「うん、良いタイムだ」
そんな感想を人知れずに零す。
それから、先程からは随分と緩やかなテンポで駆け寄ってくる脚音に向けて、
「良いタイムが出たよ」
視線をノートから外し、音のする方へと声を掛けた。
「そう」
こちらの言葉に、脚音の主から端的な相槌が返ってくる。
疾走を終えたばかりであることを感じさせず、自然なトーンで発せられた声に、
「まだいけそうだ」
そう投げ掛けてみると、
「ええ。もう一本、走ってくるわ」
頷いた声の主は、そのままこちらの前を通り過ぎて、少し先のスタート地点へと向かっていった。
「───アヤベ!」
後ろで縛った長髪を靡かせる、その後ろ姿に、俺は不意に呼び掛ける。
長い耳が微かに揺れた後、
「何?」
短い返事と共に、愛称を呼ばれた一人のウマ娘が、律儀にこちらへと向き直ってくる。
不思議そうな表情を浮かべて、俺を見据えてくる彼女に、
「あー……えーと」
半ば衝動的に呼び止めてしまったことを後悔しつつ、
「絶対勝とうな!」
とりあえず何か応え返そうとして、脳裏に沸いた言葉をその通りに発した。
「……はあ」
対する彼女、アドマイヤベガは、明らかな戸惑いを隠さずに、
「相変わらず、よく分からない人ね」
以前から彼女が何度か俺を評する台詞を口にしつつ、
「計測、しっかりお願い」
そう言いながらスタート地点に着き、構えを取った。
「ああ。じゃあ───」
彼女の依頼に、気持ちを入れ直して、再び手を上げる。
天高く昇った太陽の光、それを遮るように掲げた手を振り下ろした瞬間に、
「ふっ!」
地を駆ける一等星は、その光跡を棚引かせて走り去っていったのだった。
「次のチャンピオンズミーティングに出走したい?」
「ええ。そう言ったわ」
彼女───自分の担当ウマ娘から、その言葉を聞かされたのは、およそ一か月前に遡る。
トレーナーとその担当ウマ娘にとって、最も大事な三年間を走り抜けた俺達は、次なる目標を探しながら、日々のトレーニングに勤しんでいた。
そうして暫く経ったある日の午後、トレーニングを始める前に、彼女から唐突に告げられた、一つの目標。
チャンピオンズミーティングへの出走。
トゥインクルシリーズと並行で開催され、三年間以上のレース経験を持つ歴戦のウマ娘達が頂点を決めるために出走する大レースの一つ。
奇しくもその日は、定期的に開催されているチャンピオンズミーティングの、次の開催条件が発表された日だった。
朝見たニュースを思い出そうとしながら、口に出して言うと、
「確か、次の条件は……」
「東京レース場、芝2400mよ」
こちらが言い終わる前に、正面に立つ少女がその条件を言葉にした。
───東京レース場、芝2400m。
それは、彼女が最も輝きを放った日本ダービーと同じ舞台。
「こんなチャンス、中々無いわ」
ダービーウマ娘、アドマイヤベガが言う。
「それって───」
「そう。出走だけじゃないわ」
目の前の少女を見据える。
トレーナーである俺を、真っ直ぐに捉える彼女の瞳。
その瞳に瞼が一度ゆっくりと落ちた後、
「勝ちたいの」
再び開かれたそこには、強い意思が籠っているように見えた。
彼女の宣言を振り返る。
勝ちたい。
シンプルな言葉で紡がれたその目標は、レースに挑む競争者であれば、誰しも持ち合わせている有り触れたものだ。
しかし、彼女がレースを走る特別な背景を知る一人の人間としては、彼女が自ら勝ちたいレースを掲げてきたという、ある種異例な事態に、
「……何か、問題がある?」
「い、いや。少し、驚いただけだよ」
我知らず少し黙り込んでしまっていたようで、彼女からの問い掛けに覚醒させられて、慌てて返事をする。
それから、彼女を不安にさせてしまったお詫びの代わりの気持ちを込めて、
「分かった。全力でサポートするよ」
大きく頷いて、その目標達成を手伝うことを伝えた。
「……そう。許可貰えて、良かったわ」
対して眼前に佇む少女は、そちらも多少緊張をしていたのか、安堵するかのように小さく息を吐いた。
そんな彼女に向けて、俺は少しワクワクした感情を抑えきれずに、明るい口調で呼び掛ける。
「アヤベ」
「何?」
「絶対勝とうな!」
親指を立てながら笑い掛けて言った俺の台詞に、目の前の少女はまだ少し緊張を残したような表情で頷き返してきていた。