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羽雪 -hayki -

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1‐1.

 家路へと急ぐ人々が立てる喧騒の中、改札を通り抜けて駅を出た俺はマフラーを巻きながら灰色の空を見上げた。厚くて暗い雲に覆われた空からは、ちらちらと粉雪が降り始めている。これから夜にかけて、さらにこの雪は降り続くのだろうか?
寒さがあまり得意ではない俺は、そんな空模様に溜息を一つ。漏れた吐息は白く染まって、そして肌を刺す大気に霧散していった。
「ハァ……。今日はさっさと帰るか……」
 普段なら本屋やレンタルビデオショップ、コンビニなんかに寄って暇を潰すところだが、今日の天気は寄り道をすることすら億劫に感じてしまう程に厳しい。
「うわっ、冷てっ……」
 不意に首筋へと落ちてきた雪の冷たさに思わず身震いして、
「こりゃあ、やっぱり早く帰った方が良いな……」
 そんな風に一人愚痴を零す。
マフラーをもう一度丁寧に巻き直した俺は、足早に歩道橋の階段を駆け上がっていった。

「やっと着いた……」
 駅を出て十数分、ようやく見えてきた下宿先のマンション。
完全に冷え切ってしまった体で改めて春先に安いからというだけで選んでしまった部屋の不便さを感じた俺。自らの先見の無さに多少落胆しつつも、扉の前で頭や肩に乗った雪を軽く振り払い、建物の中へと入る。
 雪に濡れた手をジーパンの裾で拭きながら、部屋へ戻ろうとした俺は、悴んだ手に何か温かさが欲しくなって、
「なんか温かい飲み物でも買っていこう……」
 そのまま自室に向かわずに踵を返した。
ウチのマンションは玄関が広いエントランスホールになっているのが特徴で、そこに置いてある自販機には俺を含めお世話になっている住人が多い。その場所には設備の一つとして、簡素な作りのテーブルと椅子があった。まだ暖かかった季節には、ここに住む主婦やカップル達が団欒の場としてそこに屯している姿を見かけることもあったが、流石にこの時期になると誰かをそこで見ることはなくなっていた。
しかし、今日は───、
「……女の子?」

 その小さな椅子に、一人の女の子が座っていたのだった。

見た感じ、中学生か高校生かその位の年齢の女の子は、今夜の気温には向かなそうな薄でのコートを身に纏い、寒そうに背中を丸めていた。
……誰かを待っているのか?
ただ無表情にじっとしている彼女の姿に、俺は何となく居心地の悪さを感じて……飲み物を買うのを諦めて部屋へ向かうことにした。

───振り返る直前、一瞬だけこっちを見た女の子と、目が合った気がした。


1‐2.

「ああ、もうこんな時間かよ」
 風呂上りの髪を乾かしながら部屋に入った俺は、置時計の指す時間に驚いて思わず声を漏らした。時刻は既に零時を回っていて、そろそろ寝ないと明日の寝起きに響いてしまう。ただでさえ最近の朝の寒さにベッドからなかなか出られないのだから、夜更かしは厳禁と決め込んで寝支度を整えることにする。ベッドの上に放り散らかしていたジャケットを壁に掛け、マフラーをそのポケットに押し込み、寝床を片付けた。ところが、
「あれ? メール着てるな」
いざ寝ようとしてアラームをセットする為に手にしたケータイに、メールが届いていることに気が付いて、布団に潜り込んでしまう前にと、受信ボックスを開く。
風呂の間に来ていたらしいメールを見てみると、
「なんだ……おふくろか。また何か送ってきたのか?」
 母親から送られたその文面には『仕送った物資は届いたか?』という内容が書かれていて、そこでふとあることを思い出した。
「そういや今日は宅配ボックス見てなかったな」
 呟いた俺は、今から荷物を取りに行くかどうか少しだけ迷う。
何せ寒いし面倒臭いし、明日にでも……とも思ったが、
「ま、後回しにしても仕方ないし……取って来るか」
 考えを改めて一念発起、上着を羽織り直してドアノブに手を掛けた。

 寒々しい廊下を歩いてエントランスへ。備え付けの宅配ボックスを覗いてみると、大きなダンボール箱が一つだけ入っていた。
自分の荷物であることを確認し、取り出したそれを持ち上げると、それなりの重さが両腕に圧し掛かってきた。
「じゃ、戻る───」
 よっ、と気合をつけて箱を持ち直して振り返った俺は、その視線の先に───、
「えっ?」
不意に、あるものを見つけてしまった。
「……まだ居るのか?」
 疑問を口にしながらもそれが気になってしまった俺は、その場所へ荷物を持ったまま歩いてく。
自販機から僅かに零れる明かりに照らされ、映し出されていた影は、
「……」
 思った通り、夕方に見掛けた女の子のものだった。
あの時と同じ様に背中を丸めていた彼女は、しかしよく見てみると、
「って、おいおい……」
 目を瞑り、小さく寝息を立てているのだった。
 どうしたものかと一瞬考えた俺は、しかし、
「ちょっと。君」
 見てしまったからには……と意を決して女の子に声を掛けた。だが、彼女は呼び掛けに答えず、変わらずに寝息を立て続ける。
 そんな彼女の様子に、俺は仕方が無い、とダンボールを床に置いて、
「こんな所で寝てたら風邪引くぞ?」
彼女の肩を軽く揺さぶった。
するとようやく目を覚ましたのか、彼女は、
「んん……ふぁ?」
 小さな呻き声を挙げてゆっくりと顔を起こした。半開きの眼で俺を見上げてくる彼女に、俺はもう一度忠告を促す。
「君、こんな所で寝てたら風邪引くよ」
 彼女は俺の言葉には応えず、
「ここは……?」
 まだ寝起きで頭が回りきっていないのか、そんな風に呟いて左右を見渡した。
「ここは〇〇マンションの一階エントランスホールだけど……何でこんな所で寝てたんだ?」
 俺はその呟きに答えて、今度はこちらから疑問を投げ掛けた。
彼女はこちらの話を聞いているのかいないのか、
「……そうか。私……」
 何やら一人納得したらしく顎に手を当て小さく頷いていた。
そして、こちらの質問には答えず、
「で、貴方誰?」
 逆に俺の身分を問うてきた。
 会話があまり噛み合っていないことに少し不満を感じてしまったが、しかし、
「俺はこのマンションに住んでる学生だよ。こんな寒い中で君が眠りこけていたから心配になって起こしたんだ」
 そこは多分年上な俺の方が大人な態度を取るべきだと判断して、丁寧に答えを返した。
 女の子は「ふーん」と曖昧な返ことをした後、
「……まあ起こしてくれたのには感謝するわ。寝ちゃうつもりは───」
 そう言い始めた所で、
「───ックシュン!!」
 大きなくしゃみをして、言葉を詰まらせてしまったのだった。
 恥ずかしそうに鼻を啜った彼女は、そうしてそこで黙り込んでしまい、何となくバツの悪くなった俺も黙ってしまったせいで、暫く二人の間に沈黙が流れた。……その間ずっと、女の子は寒そうに体を震わせ続けていた。
妙な空気に耐えかねた俺は、
「もしかして……誰かを待ってたりしてるのか?」
何となく思いついたままに、彼女に問いを向けてみる。
 その質問に彼女は白い息を漏らしながらこう答えた。
「……別に。誰も待ってなんかないわ……」
「じゃあ……何でこんなに寒い所にずっと居るんだ?」
「それは……:」
 彼女は俺の更なる問いには答えず、俺から目を背けて言葉を濁した。
 そんな彼女の態度に、これ以上は踏み込んじゃまずいなと判断して、
「……まあ言いたくないなら良いよ。もう遅いし、今日は帰った方が良いと思う」
 そう言いながら、その場から立ち去ろうと荷物に手を掛けた。
俺の言葉に顔を伏せてしまった女の子は、
「……」
それきり押し黙ったまま、再び己の体を抱く様に椅子の上で丸まってしまった。
「……ごめん」
 何か説教臭くなってしまったことに俺は詫びて、そしてもやもやした気持ちを抱えたまま部屋へと帰っていった。


「……うう、ん」
 あの後すぐに寝床に入った俺は……どうしても寝付くことができずにいた。携帯で確認した時間はもう午前二時を過ぎて、二時間以上もベッドで悶々としていた計算になる。
いい加減苛立ちを押さえきれなくなって、
「ああ、もうッ!」
 ガバッと布団を跳ね除けてベッドから飛び起きる。
 さっきからずっと脳裏を掠めて眠りを妨げるのは、やっぱりあの女の子の姿だった。どうしてかあの光景が気になって仕方がない俺は、迷いに迷った挙句、
「流石にもう居ないよな……!」
 部屋のドアを開け放ち、階段を駆け下りて、自販機の所へと走り出した。
息を弾ませて飛び込んだそこには───、
「……ッ!」
 まだ彼女の小さな背中が見えていた。