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Somniare

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 私は、走ることが好きだった。
 けれど、私の大切な人たちは、私が走ることが嫌いだった。
 
「はい、ではこれで連絡事項は以上になります。これからの学園生活、一緒に頑張りましょう」
 教壇に立っていた女教師の呼び掛けに、各々が返事をして起立する。出席番号一番として、始業初日の日直に指名された少女が、緊張した面持ちで発した挨拶の後に続いて、
「よろしくお願いします!」
 まばらに揃った声が教室内に響き渡った。
 女教師はこちらに一頻り笑顔を見せた後、解散の号令を掛け、教室を去っていた。
 一瞬の静寂の後、誰かの大息を皮切りに、次第に騒がしくなる室内。
 私はそんな喧噪の中、一冊の本を開いた。
 分厚い表紙を捲ると、数枚の写真の後に文字が並ぶ。細かな字で記された内容は多岐に渡り、私はその中で、私にとって必要な情報はどれか、不必要な情報はどれか目星を付けていく。
「こ、こんにちは!」
「……」
「あ、あの。こんにちは!」
 そうして、作業に没頭し始めていた私の傍に、いつの間にか一人の少女が立っていた。
 ロングヘアを揺らしながら、少し強張った表情を向けてくる少女に、私は、
「こんにちは。何か用?」
 開いたままの本から一旦視線を外し、顔を上げて彼女に返答する。
 返事を貰えて安堵したのか、僅かに表情が緩んだ彼女は、
「それってチームのカタログだよね? どこで貰ったの?」
 私の手元を指差して、そう話を続けてきた。
 彼女の質問に、私は、
「講堂を出た所。先輩たちが配っていた」
 あくまで簡潔に答える。
「へ、へぇー。そっか、気づかなかったなぁ……」
 私の率直な回答に、少女は、今度は何処か気まずそうに眼を泳がせて呟く。
 彼女が会話のきっかけが欲していることは察しているが、
「……」
 私は、私の方からその後を続ける気はなかった。
 少女から視線を外して、教室を見渡す。
「でさー、今日登校する時にね───」
「うん、今日からよろしくねっ!」
「ああ、見た見た。あの人、有名人らしいよ。格好良かったよねー」
 室内には、所狭しと会話の華が咲いていて、年相応の姦しくも華やかな賑わいが生まれていた。
 朝から続いた緊張感から解放された彼女たちの表情は皆一様に明るく、これから始まる学園生活への期待に胸を膨らませているようだった。
 その光景を、教室の最後尾の席から眺めている私。
 傍らの少女も同じように室内を一望していたが、やがて、
「ね、ねぇ!」
 意を決したように、強く私に呼び掛けてきた。
 私の席の前に場所を移し、
「私、○○○って言うのっ」
 勢い良く机に両手をついて、そう声高に言った。
 分かりやすい意味を持つ彼女の名前を脳内で反芻し、とりあえず記憶に収めようと努めていると、続いて、
「貴方の名前は───」
 前のめりになりながら発せられた彼女の声に被さるように、
『生徒会よりお知らせします───』
 不意にチャイムが響いて、ジジっという雑音の後に流暢なアナウンスが聞こえてきた。
 一拍の後、
『生徒のお呼び出しを申し上げます。新入生の───』
「うわ、いきなり呼び出し?」
『お伝えしたいことがありますので、生徒会室にお越しください───』
 聞き取りやすい速度と声色のメッセージが教室内に届く。
 繰り返しの内容がスピーカーから発せられる中、連絡を聞き漏らすまいと耳を傾けていた室内の少女たちは、そのうち口々に、
「え、誰?」
「このクラスにいる娘?」
「なんか怖いねー」
 十人十色の反応をみせて、教室は再び騒々しさを取り戻した。
 放送に注目していた目の前の少女も、騒がしい声を聞いて、はっと自分を取り戻したらしく、
「あ、えっと。話の続きだけど……」
 会話を再開しようとしてみせたところで、
「ごめんなさい」
 私は席を立ちあがり、彼女の言葉を遮った。
 広げていたカタログを閉じ、鞄に閉まって歩き出す。
「え? え?」
 驚きの声を上げて固まったまま彼女に、そういえばまだ質問に答えていなかったことを思い出した私は、そこで一旦立ち止まる。
「ああ、そうだ。貴方の質問なんだけど───」
 それから顔だけを彼女の方に向けて、
「さっきのが、私の名前」
 そう、自らを名乗った。
「え? うそ!?」
 狼狽する彼女に、けれどそれ以上は何も答え返さずに、再び歩みを進める。
 クラスメイトたちの視線が背中に増えていくのを感じながら、私はそのまま教室を後にした。


* * *

 生徒会室に着いた私を待ち受けていたのは、入学式でも舞台に登壇していた、生徒会長と副会長の二人だった。
 二人から簡単な挨拶を受けた後、ソファに促された私は、彼女らを伺いながら着席する。
 生徒会長がテーブルを挟んで私の前に座り、副会長はその後方に立つ。
 その、まさに威風堂々とした所作に、私も少しだけ緊張して思わず背筋を伸ばした。
「わざわざ呼び出してすまなかったな」
「いえ。大丈夫です」
 凛とした生徒会長の声に、短く返事をする。どこか気後れを感じてしまうのは、彼女のオーラのせいか、それとも、この後の話の内容のせいか。
 私は、自分が呼び出された原因を自覚していた。
「呼び出させて貰った理由だが───入寮を拒否した訳を聞かせて貰いたいと思ってな」
 ああ。やっぱりそうか。
 生徒会長の発言に、私は自分の予想が当たったことを知る。
「君も知っていると思うが、この学園は基本的には全寮制を採用している。実家が近い故に、そこから通学をしている生徒も居ることは事実だが、どうやら君はそういう訳ではないようだ」
 生徒会長はそう言いながら、テーブルに広げられた資料に手を伸ばした。
 覗き見たそこには、私のプロフィールが掲載されていて、当然、出身地や実家の住所が記されている。通うことは到底不可能な実家の住所の下に、この春からの私の現住所の情報も併記されていた。
 一人暮らしの小さなワンルームマンションの番地までを丁寧に読み上げた生徒会長は、
「確かにこの辺りならば通うことは可能だが……。かなり不便に思う距離だが?」
 そんな感想を漏らして、私の方に視線を直す。真剣に私を案じてくれているのだろうその表情から、彼女の器の大きさを感じ取って、私はつい目を逸らしてしまいたくなってしまった。
「それは───」
 思わず零しそうになった言葉を、慌てて飲み込む。
 はぁ、と一つ息を吐いて、私は次のように彼女の問いに答えた。
「お金の問題です。私の家はそれほど裕福ではないので、少しでも家族の負担にならない方法を模索したんです」
 吸い込まれそうな瞳を正面に捉え、きっぱりと言い放つ。
 率直だが最も分かりやすく、それでいて私たち学生の身分ではどうすることも出来ない事情を前に、生徒会の二人は、
「……そうか」
 返す言葉をなくしたように、ため息交じりに呟いた。
 ───そんな彼女たちの落胆ぶりに、嘘をついてしまった罪悪感が疼いた。
 たった数分の応対でここまで真摯に私に向き合ってくれた二人の器量に、私は己の振る舞いを恥ずかしく思いながらも、改めて意を決する。
 私には今、私の事情について誰の詮索を許容するような余裕はない。
「何か協力できることがあったら何でも言ってくれ。生徒会として、可能な限りフォローしよう」
「はい、有難うございます」
 生徒会長の激励に返事をしつつ、この後の予定を考える。教室で見ていたカタログの内容を思い返していると、
「会長、そろそろ」
 副会長が生徒会長に声を掛けた。
「ん、もうそんな時間か」
 呼び掛けに応じた彼女は壁の時計を確認すると、それから私の方に向き直って、
「今日は時間を取ってくれてありがとう。すまないがこれから私たちのチームの入部テストがあってな。これから出掛けなければならないんだ」
 申し訳なさそうに、私に断りを入れて席を離れた。
 彼女の台詞に私の耳がピンと立つ。
「あ、あの! 入部テストって……?」
 反射的に聞き返した私に、副生徒会長が補足をしてくれた。
「我々のチームへの入部テストだ。先日、残念なことにチームに怪我で長期の欠員が出てしまった。その補充のため、急遽開催することになった」
 説明を受けながら、なるほど、だからカタログの予定には記載がなかったのか、と一人納得した私は、そして考える。
 生徒会長たちのチームは、この学園で最強と目されるチームだ。チームのメンバーは皆輝かしい成績を上げ、学園内外から羨望の眼差しを浴びている。
 そんなチームの入部テストだ。きっと激しい競争になる。だけど───。
「あのっ!」
 目の前のチャンスは全て掴みに行く。
 そうしなければ、私がこの場所にいる意味はない。
「お願いがあります───」
 勢いよく立ち上がって言う私に、生徒会の二人は不思議そうな眼差しを向けた。


* * *

「次!」
「はい! 私は将来海外に挑戦したいです!」
「私は短距離が得意なので、高松宮記念に出たいです!」
 快晴の青空の下、私は大人数のウマ娘たちと共に、一か所に集っていた。トラックコース脇の一角で入部テスト前の説明を受ける。一通りの説明が終わった後、チームを率いているトレーナーから、挨拶と自分の目標を求められた。
 順番にそれに答えていく周囲の中で、一回り小柄な私は、少し背伸びをしつつ、辺りの様子を伺っている。
 眼前に立つトレーナーの傍には、つい先ほどまで私と会話をしていた生徒会長や副会長の姿があり、他にもテレビの中継やネット、雑誌で一度は見たことのある有名なウマ娘たちがズラリと並んでいた。
 そんな豪華な顔ぶれに、必然にこのチームのレベルの高さを感じ取る。それは周りの娘たちも同じようで、ある子は何処か浮かれた様子で顔を紅潮させ、またある子は緊張した面持ちで身を強張らせていた。
 ……私は、どうだろう。
「では、次!」
「はい───」
 いつしか回ってきていた自分の番に、私は人込みをかき分けてトレーナーを前にした。
「私は、私の目標は───」
 一呼吸を入れて、正面を見据える。
 私の目標。私がここに居る意味。
「勝つことです」
 それを、端的に宣言した。
「え?」
「なに、それだけ……?」
 背後のどよめきを感じながら、しかし私は振り返らずに、トレーナーの次の言葉を待つ。
「───」
 数瞬の沈黙。耐えかねる様に、心拍数が上がる。
「分かった。次!」
 やがて小さな頷きと共に掛けられた声に応じて、私は後方へと下がった。
なおもざわつく周囲を敢えて視界に入れないようにしながら、元居た立ち位置に帰る。
「ねぇ、貴方」
 不意に、隣に居た娘が囁くような小さな声で私に話し掛けてきた。
「……何?」
 明らかに呼び掛けられて無視するわけにもいかず、こちらも小声で返す。
「さっきのって───」
「そのままの意味よ」
 彼女が話し終わる前にそう返事をし、さらに質問を先読みして、発言を付け加える。
「出来る限り早く、ね」
 あくまで視線を向けずに言う私に、隣の娘はこちらの態度を察したのか、
「そ、そっか……」
 バツが悪そうに息を零した後、それきり話し掛けてはこなくなった。
「次だ!」
「はいっ。私は早く憧れの先輩たちに追い付きたいですっ」
 トレーナーと生徒たちの問答はまだ続いている。
 私は顔を下げて目を瞑り、意識を己が内に向ける。
 そうして、まだ少し高鳴っている鼓動を落ち着けるため、数回にわたって深呼吸を繰り返したのだった。


* * *

 暫くして、私たちは先輩の案内でゲート地点へと招集された。
「では、呼び掛けた者からゲートに入れ」
 先輩が手にしたリストを読み上げている間、私は初めて踏むトラックの感触を確かめていた。
 柔らかく、それでいて適度に反発のある芝コースは見渡す限り綺麗に整えられており、改めてこの学園の環境の良さを感じ取る。
「四枠八番───」
 名前を呼ばれ、ゲート内に移動する。
 ほぼ中央の枠順。これなら枠による有利不利はなさそうだ。
 これも初めて間近で見るゲートの扉を一瞥し、それから深く息を吸う。
 レース展開は分からない。だけど、私が取る作戦は最初から決まっている。
 最後に呼ばれた娘がゲートに収まる。
 集中しろ。
 先輩がゲートから離れる気配を感知し、身構える。
「位置について───」
 体勢を下げる。
「よーい───」
 さあ。
「スタートッ!」
 行けッ!!
 ゲートが開いた瞬間、私は私を蹴り飛ばす様に気合を入れて駆け出した。
 考えていた以上の好スタート。私は勢いを殺さずにスピードを上げていく。
 すぐさま眼前から、他の娘たちが消えていくが、そのまま加速し続ける。
 足音が背後に聞こえ、段々と遠くなっていく。
 早鐘を打つ鼓動。構うもんか。
 二つ目のハロン棒を過ぎても、スピードは一切緩めない。
 一瞬だけ首を振り向けて背後を確認すると、大きく離れた位置に、第二集団を形成する数人の姿が見えた。
 その娘たちと瞬間的に目が合う。皆一様に驚きと動揺の表情を私に向けているようだ。
 これまでは、私の狙い通り。
 どうかそのまま最後まで、困惑したままレースを終えて下さい。
 正面に向き直った私は、なおも脚に力を入れて、前に進んでいく。
 浅くなる呼吸を自制し、少しでも多くの酸素を体内に送ろうともがく。
 コーナーが見えてきた。
 脚を止めない。
 カーブに差し掛かったことで、視野角が変わる。
 近い───!
 不意に視界の端に移った第二集団の姿に、私は奥歯を噛み締める。
 彼女たちを認識したからなのか、それとも余力がなくなったからなのか、気づかないうちに耳に届くようになっていた後方の足音が、唸りを上げて私に迫ってくる。
 来ないで。
 私はそう叫んでしまいそうになる気持ちを堪えながら、懸命に脚を動かす。
 コーナーを抜けて、最後の直線。
 複数の足音が左右から聞こえてくる。
 視界が歪む。呼吸が荒れる。
 それでもがむしゃらに前を見据える。
 視界に影が生まれる。誰かの足音が前方から聞こえる。
「───ッ!」
 まだだ。まだレースは終わっていない。
 走れ。走れ!
 力が抜けていきそうになる脚に、気合という鞭を打ち続ける。
 最早周囲の状況を確認する余裕もなく、私はただひたすらにゴールだけを目指した。